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時宗総本山 遊行寺 |
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総門 (三大冠木門) |
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大銀杏 |
| 本堂 |
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本堂内陣 |
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一遍上人像 時宗の開祖 一遍上人は、延応元年(1239)伊予(愛媛県)の豪族、河野通広の次男として生まれ、 10歳で仏門に入られた。 諸国を行脚し修行を積まれたが、一遍上人36歳の文永11年(1274)熊野本宮証誠殿に参詣され、 熊野権現より念仏賦算の神託啓示をうけました。 「往生は、ただ南無阿弥陀仏によってなされる」と悟りを聞かれ、だれ彼の区別なく、南無阿弥陀仏 を唱え、お札を渡すことが、「仏門の道」と知ったといいます。 時宗ではこの時を開宗の時としています。 一遍上人はみすぼらしい衣を着た貧しい僧同様の行脚の一生だったが、念仏をすすめて歩く一遍上人には、 宗教人に徹した厳しさがうかがわれたといいます。 |
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宇賀神のほこら 富貴長寿の神として信仰されている。境内裏手の細い上り道の途中にあります。 徳川氏の祖先、新田一族の有親が時宗に入って、足利氏の追手から逃れることができたと喜び、 この小さな社を寄進した。 「日のいりてくれぬや富士のうしろ空」(通暁)の句碑がかたわらにあります。 |
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小栗判官照手姫の墓 東門から右手、本堂脇の細い道をたどると長生院というお寺があります。 応永二十九年(1422)常陸小栗の城主満重(みつしげ)が足利氏に攻められて落城、 その子 判官助重(すけしげ)が家臣11人と三河に逃げのびる途中、この藤沢で横山太郎に 毒殺されかけたことがあります。このとき、妓女照手が機知を働かし助重らをのがし、 一行は遊行上人に助けられた。その後、助重は家名を再興し、照手を妻に迎えた。 助重の死後、照手は髪をそり長生尼と名のり、助重と家臣11人の墓を守り、余生を長生院で 終わったといいます。 |
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中雀門 安政6年(1859)年に建立されたもので、境内内で一番古い建築物です。 「向唐門」造りといわれ、菊の御紋と三葉葵が刻まれています。 |
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宝物館 遊行寺が開創されて数百年の間に、火災、戦火、震災と数回にわったって厄難にあっていますが、 幸いにして古文書や什宝だけは残った。しかし、旧式な土蔵に収められてあって一般に開放できなかったが、 開宗700年記念としてここに近代的な宝物館が完成した。 毎月展示内容を変えていて、開館日は日曜日午前10時より午後4時までとなっています。 |
| 句碑 |
遊行寺の境内には沢山の句碑があります。 「生きていて相遇ふ(あいあう)僧や一遍忌(いっぺんぎ)」 「戦後遠し働く蟻と遊ぶ蟻」 「感傷も今宵はよろし開山忌 あがなひてもつ葡萄の房を」 「一遍上人を讃える長歌。 糞掃衣(ふんぞうえ)すその短くくるぶしも脛(すね)もあらはに わらんぢ も履はかぬ素足は 国々の道の長手の土をふみ石をふみ 来てにじみたる血さへ見ゆかに いたましく頬こけおちておとがひもしゃくれ尖るを 眉は長く目見(まみ)の静けくたぐひなき敬虔をもて 合わせたる掌のさきよりは光りさへ放つと見ゆれ 伊予の国石佐庭(いさわ)の山のみ湯に来て為すこともなく 日をかさね吾は遊ぶをこの郷に生まれながらも このみ湯に浸るひまなく西へ行き東へ往きて 念仏もて勧化したまふみすがたを こゞに残せる一遍上人」 「もののあはれも知らさりし 少年にて このみ寺の小野小町の歌を読みしか」 「日のいりてくれぬや富士のうしろ空」 |
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| update 2003-08-05 |